旧ユーゴスラビア〜クロアチア〜


 NVCでは1994年の緊急支援事業として旧ユーゴスラビア国内難民救援チャリティーコンサート「サラエボよ明日は」を開催しました。
 1994年9月25日に行われたコンサートは旧ユーゴスラビア出身の歌手ヤドランカさんと 新潟交響楽団の皆様のご協力、そして800〜1000人の聴衆・ボランティアの参加により大成功いたしました。
 このコンサートを通じての収益金はUNHCR国連高等難民弁務官事務所とMSF国境なき医師団に寄付しました。

NVC・旧ユーゴスラビア難民救援チャリティコンサート


▲NVCライブラリー第6巻「戦火の果てに生きて」
 1991年からスロベニア、クロアチアで始まった旧ユーゴスラビアの紛争は 、1992年春にボスニアに飛び火し、最大240万人の難民・避難民、20万人の 死者・行方不明者を出しながら、いっこうに終わる気配が見えませんでした。とくに 、セルビア勢力の包囲されたサラエボでは、20万人の市民のうち1万人が狙撃で殺 されるような状況でした。ボスニアの紛争は1993年〜94年にピークに達してい ました。 そんな中、サラエボ・冬季オリンピックのテーマソングを歌ったヤドランカさ んが、紛争前から日本で演奏活動を続けていました。彼女は祖国の惨状を悲しんで 、サラエボでの戦争と犠牲者を悼む歌を作詞・作曲しながら、日本で平和への願いを アピールしていました。 NVCでは、一会員の発案から、はじめての緊急支援を 旧ユーゴの難民救援に関して取り組むこととなりました。また、せっかくヤドラン カさんが日本にいるのだから、ヤドランカのチャリティコンサートが良いだろうとい うことになりました。さらに、会員を通じて新潟交響楽団の協力を依頼したところ快 諾を受け、ヤドランカさんと新潟交響楽団のジョイントによる「NVC・旧ユーゴス ラビア難民救援チャリティコンサート」を1994年9月に新潟市・テルサで開催し ました。 NVCでは、事前にこの収益金の配分先を検討するために、会員が旧ユーゴス ラビアのクロアチアにあった難民キャンプを訪れ、実態調査をおこないました。この 調査の結果から、とくに基礎的な医薬品へのニーズが高いことが分かり、収益金はU NHCR(国連難民高等弁務官事務所)と国境なき医師団(MSF)に半分ずつ寄付 することとしました。とくに国境なき医師団とは、この寄付金が難民・避難民への緊 急医療活動の用いられることの確約を取りました。 

 9月のチャリティコンサートには、延べ800人の聴衆・ボランティアが参加 し、非常に感動的なコンサートとなりました。コンサートは3部構成で、ヤドランカ さんのソロ・コンサート、新潟交響楽団の演奏、そして第3部は、このコンサートの ためにわざわざ編曲されたヤドランカさんの最新の曲を、新潟交響楽団のフル・オー ケストラをバックにヤドランカさんが歌いました。聴衆の評判も上々で、コンサート 終了後には、出店で売っていたヤドランカさんのCDが売り切れになるほどでした。 このチャリティコンサートを通じて80万円の収益金が上がりましたので、UNHC Rと国境なき医師団に各40万円ずつ寄付しました。国境なき医師団が1999年に ノーベル平和賞を受賞したことを、ご記憶の方も多いと思います。その翌年、199 5年の4月〜5月にかけて、国際交流基金の助成を受けながら、NVCはクロアチア へのスタディツアーをおこないました。その後の旧ユーゴスラビアの人々 NVCがチャリティコンサートをおこなった1994年の翌年となる1995 年、旧ユーゴの紛争は劇的な展開を見せました。NVCスタディツアーがクロアチア のNGO、CWWV(女性戦争犠牲者救援センター)を訪れたちょうどその時、クロ アチア政府軍はクロアチア領内のセルビア勢力支配地域を攻撃し、5月と8月の大規 模な軍事行動で、ほぼすべての領土を「奪還」しました。この軍事行動のさなか、ク ライナ地方では1週間で20万人のセルビア人難民がクロアチアから流出しましたが 、これは1999年のコソボ紛争に至るまで、旧ユーゴ紛争で最大規模の難民です。 セルビア勢力は同年5月のボスニアのスレブレニッツァなどの国連保護地域を武力で 制圧しましたが、この時に数千人のムスリム人が行方不明になりました。こうした動 きに対して、NATO(北大西洋条約機構)は軍事行動を強め、セルビア勢力支配地 域をトマホーク・ミサイルなどで空爆しました。こうした軍事行動の結果、1995 年12月にボスニア和平に関するデートン合意が成立し、ボスニア紛争は終わりまし た。しかしこのことは同時に、戦争をしていた民族主義勢力の間での「民族浄化」が 完了したことも意味しました。

 1995年にNVCが交流したCWWVをはじめとした旧ユーゴのNGOは、 戦後社会の中に残された、戦争被害者の精神的・身体的な深い傷、民族間の憎しみ、 軍事主義などと向き合いながら、多民族の和解と共生を進めています。戦争で残虐行 為をはたらいた元兵士が社会に適応できず、殺人事件や女性への暴力を犯すケースが たいへん増大しました。戦後の5年間はとくに、故郷に帰りたいのに帰れない難民・ 避難民がどうすれば安全に帰れるかが、もっとも大きな問題でした。家屋は完全に破 壊されているか、他の民族住民が住んでいたりもします。戦争で破壊された村には仕 事もありません。さらに、追い出した側の民族からの脅迫や暴行も後を断ちませんで した。最終的に故郷に帰るのをあきらめ、アメリカやオーストラリアなどの第三国 に移住する難民・避難民も数多くいます。けれども、非常にゆっくりとしたペースで すが、故郷の帰れる人々も増えています。 1996年のNVC・愛のかけ橋バザーでは、こうした難民・避難民の女性が 生活のために作った手芸品をNGOから購入し、販売しました。同時に、戦争を体験 した旧ユーゴの子どもたちが書いた絵も展示しました。子どもが精神的な傷を克服す るうえで、自分の体験したことを絵で表現し、現実に向き合うことは非常に重要であ り、NGOのおこなう心理療法の基本となっているのです。

 その後、民族間の憎しみを煽って、戦争に人々を駆り立てた政治指導者が、次 々の権力を失っています。クロアチアのツジマン大統領は1999年に死去し、そこ から急速に民主化が進んでいます。セルビアのミロシェビッチ大統領も2000年に 権力を失い、現在はオランダ・ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷に身柄を拘束され、裁 判を受けています。こうした政治的変化は、旧ユーゴの復興と社会の再建に大きな意 義を持っています。

 しかし、旧ユーゴはまだまだ多くの問題を抱えています。1998年からコソ ボのアルバニア人とセルビア当局との間の軍事衝突が拡大・激化し、1999年春の コソボ紛争に発展しました。3カ月間の紛争で、コソボの220万人の住民のうち、 100万人のアルバニア人が難民・避難民となり、1万人が死亡または行方不明とな りました。NATOのセルビア空爆でも多くの民間人の犠牲者が出ました。NATO の空爆以後、セルビアはコソボから撤退し、アルバニア人難民のほとんどは故郷に帰 りましたが、今度はアルバニア人の報復を恐れた20万人のセルビア人が避難民とな りました。コソボが収まったかと思うと、セルビア南部およびマケドニア西部のアル バニア人武装勢力が、「武力による独立・コソボとの統合」を目指して軍事行動をは じめました。現在(2001年11月)では、国際社会の仲介が実を結んで、軍事衝 突は一応収まっていますが、紛争の火種は依然としてくすぶっています。