かけ橋

かけ橋 第12号1998年12月21日発行

発行所 NVC新潟国際ボランティアセンター 事務局
〒951-8056 新潟市花町2069 新潟東邦生命ビル7F Phone & Fax 025(222)7899


『第10回NVC愛のかけ橋バザー』10月3,4日開催………ご協力ありがとうございました………

 今年で10回目を迎えた「NVC愛のかけ橋バザー」は、多くの皆様のお力添えをいただき盛況のうちに無事終えることができました。今年も売り上げや寄付金を合わせ、2,455,089円という大きな収益を上げることができました。ご協力いただいた企業、個人の皆様に心から感謝いたします。

 今年は、昨年以上の不況に立たされている社会経済の中で、バザー商品が果たしてどのくらいご提供いただけるか、例年以上に不安を感じていました。最近は、フリーマーケットで格安な物の売買があちこちで行われ、バザー商品の価格を設定するにもかなりの苦労がありました。そんな中で、第10回のバザーを何とか成功させようと、高橋節子代表を中心に会員が企業を始め、知人や友人などあらゆる人脈を頼り、バザー商品ご提供のお願いに駆けずり回った結果、たくさんの商品をご提供いただくことができました。またテレビやラジオ、新聞等でNVCバザーを知り、直接会場に商品をお持ちいただいた市民の数も少なくありませんでした。

 例年のことながら、今年もたくさんのボランティアの皆様のご協力をいただきました。会員の友達、マスコミでバザーを知りボランティアをお申し出いただいた市民の皆様、大学生、短大生 専門学校生や高校生等カを貸してくださった皆様厚くお礼申し上げます。その数は廷ベ500名にものぼりました。今年で3年目になりますが、東京から応援にきていただいた早稲田大学学生の参加は、スタッフをはじめボランティアの皆さんに大きな活力を与えてくれました。バザーのポスターは昨年に引き続き、会員で仙台在住の野地敦子さんが作成してくれました。アジアの子どもたちが明るく、元気で、楽しく、仲良く遊んでいる姿が表現され、大変すばらしいポスターでした。毎度のことながら新潟大学学生の皆様に心から感謝します。水地真弓さんや北上重之さんを中心に、商品運搬や事務局に張り付いての電話対応等を長期間にわたり担当していただきました。さらにバザー当日は、街頭でのチラシ配り、ゴミ整理など見えない部分でも大活躍していただきました。特に商品販売後に出てくる空箱等のゴミ整理を、汗をふきふき黙々と行ってくれた馬場隆史運営委員の姿に感動しました。街頭でのチラシ配りは大変効果があり、開催時間内のお客様の流れをとぎれなくする欠かすことのできない裏仕事です。場内放送は昨年同様、新潟明訓高校の放送部の皆さんにお願いし、明るい活気ある案内をしていただきました。売り場も、食品売り場チーフの北村泰運営委員の元気な呼び掛け、カバン骨董品売り堤チーフ早稲田大学学生の田中道子さんの販売手腕、どこの売り場もチーフを中心に活気と工夫がみなぎり、不況の中でのバザーの売上を伸ばした要因であったと思います。

 さらにバザー当日開場前の時間を利用し、多賀秀敏ベトナム未来プロジェクト実行委員長(早稲田大学教授)から、世界経済の構造と、NVCバザーの趣旨をスタッフやボランティアにお話いただき、意識を新たに売り場に立てたことも好結果に結びついたものと思います。9月30日の会場設営は嶋田正義副実行委員長を中心に行い、今年は展示コーナーのイメージを変えてみました。いつも苦心する商品の値付けは、今年も高橋節子代表、大竹康子運営委員を中心にボランティアのご協力をいただきました。事務局では西村智奈美前事務局長が、商品提供やボランティアの申し出等を新潟大学学生とともに対応し、全体を掌握してくれました。売る人、裏方の人、それぞれが各員の持ち場で一生懸命頑張ったことが、「第10回NVC愛のかけ稀バザー」を大成功に導いた原因と確信します。

 最後に今年も会場をご提供いただき、バザーを全面的に支援していただいた郵便局閑係者、商品をご提供いただいた企業、個人の皆様、バザー開催を取り上げていただいたテレビ、ラジオ、新開等の報道機関、側面からご協力いただいたNTT,たくさんのボランティアの皆様、本当にありがとうございました。バザーの収益は、NVC事業に有効に使用させていただきます。

 今後ともNVC事業にご理解をいただき、ますますのご支援をいただきますようお鹿い申し上げます。
(バザー実行委長 野水 和行)


 新潟発の国際貢献---第10回NVC愛のかけ橋バザー
           ご協カありがとうございました
          2,455,089円にもなりました

 1998年10月3、4日に開催されましたバザーにたいし、商品のご提供、収集、9月30、10月1、2日の会場設営と値段付け、当日の売り子さん、広報、寄付金、会場や備品の借用など、ご協力くださった方々のお名前を掲載しています。今年も多くの方々から意義あるご協力を賜りました、厚くお礼申し上げます。搬入ルートの関係で、個人と団体の別が混ざっていることもあるかと存じますが、平にご容赦願います。不手際によりお名前の掲載もれがございましたら、どうかお許しください。またお気づきの点がありましたらNVCバザー実行委員会までお聞かせ願います。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。(以下、敬称略)

* 協力者名簿は割愛しました。

-皆様からの大事な善意の品-
 佐藤京子(NVC会員)

 私にとってNVCは会費を払い、送られてくる会報に日を通し、バザーの時期になると寄付をするといった、ごく普通の会員に過ぎなかった。二度ほど講演会にも足を運び、活動内容は理解できたが、私がいくつか所属しているボランティアの団体よりもまだ遠い存在だった。

 何とはなしに今年は手伝いに行ってみようかなという気持ちもあって、バザーの日、ゴルフに出かける嬉しそうな主人を尻目に、電車で新潟の会場に向かう。新潟駅まで1時間。会場の前に来ると、バザーのお手伝いの方達が大きな声で道行く人々に呼び込みをしていた。近年は、多くの場所で催しがありバザーやフリーマーケットのイベントが珍しくなくなっている中でお客様に足を運んでもらうのは大変なことだと思う。

 初めての会場の中、いらっしゃいませ!いかがですか?と元気一杯の学生さんの声が行き交い熱気にあふれている。私も小さな店を経営していた経験もあり家庭用品の販売を手伝わせてもらう。にわか販売員なのに舌もなめらかになりお客様とコミュニケーションをとりながら商品はよく売れた。しかし午後3時を過ぎると客数も少なくなってこれだけの商品が夕方までに売り切れるのか不安になってきた。そこで私は4000円よりも3,800円の方が、1000円よりも950円の方が心理的に安く感じて買いやすいことを知っていたので簡単に値引きをして売った。よく売れた。が、しかし、「かってに値引きをしないでください。最後に会員の中でもさばけるし、もし残ったら来年に持ち越します。」と注意された。私の傍らの会員の方がやんわりと「その値引き分でベトナム人が一人救えるのですよ。そして何と言ってもこの商品の一つ一つは皆様からの大事な善意の品なのですから。」と説明してくださった。私はガーンと強いショックを受けた。そして私は安易な自分を恥じた。本当にその通りだと思った。そしてそこにこそNVCの本来の目的があることを知ることができた。今日一日、同じ目標に向かって若者たちと一緒にカを合わせ、こんなにも一生懸命になれる人々の姿は尊いものだ。「私にも何かお手伝いできるのでは?」と遠い存在だったNVCに少し近づけた気がした。

 夕方、軽い疲労を感じたが、遠くベトナムの子供達に思いを馳せながら、私の心はとても満ち足りた気持ちで電車にゆられて帰途についた。夜主人は今日のゴルフの自慢話を始めたが、それは私の貴重な体験と一度食べたら忘れられないグリーンカレーの話で、かき消された。


バザー(食品担当)に参加して+自己紹介を兼ねて!!
 北村 泰(NVC会員)


 私の顔と名前を覚えていただいた方も多いのかも多いかも知れませんが、よろしくお願いします。NVCに参加して3年?になります。いつ参加したのかはっきり覚えがありません。いつの間にかNVC会員の袖山さん、関さん、佐藤信幸さん、嶋田さん、進さんなどと親しくさせてもらっていました。これまでは、個人的に留学生や研修生の方々と交流をして参りました。

 ところで、バザーには昨年初めて参加しました。それまでは少し時期が違っていて、参加しにくかったのです。というのは私は中学校の教師をしていまして、 9月末は運動会の時期です。それが終わりますと、クラブ活動は3年から2年にバトンタッチして、大会が目自押し。そして中間テスト。合唱音楽会に文化祭、その後は研究会に期末テストに学年末。3年を持てば更に追い討ちをかけるように進路指導で休みがありません。たまたま昨年はNVCのバザーが運動会と中間テストの狭間だったため、比較的余裕がありました。今年は、進路指導主任ですが、クラスがありません。そんなことで、今まで関われなかったバザーに関われるようにな,りました。同じやるなら中心的にやらなけれぼ気が済まないものですから、今回はかなり積極的に関わらせていただきました。そこでどれかひとつ担当しろということになりました。普段から家では主夫なので、食品は知っているつもりです。また、陶磁器も好きでよく覗くのです。そして昨年は桐生さんや佐藤信幸さんのやる陶磁器を少しお世話させていただいたので、食品か陶磁器ならということでチーフスタッフを担当しました。実際には食品を担当しました。やはり値付けの難しさを強く感じました。売れる値段、より利益を出す価格、そして売れ残さない価格。たくさん買ってくれる方には若い人にお願いして無理に駐車場まで運んでもらいました。

 ありがとうございました。


−うれし、はずかし「宣伝部隊」- 
 前田 有樹(NVC会員)


 私にとってNVCバザーは五年目を数える。歩いて、見て、考える。いままでになく充実していた。そう自分なりに納得できる二日間だった。

 昨年までは「売り子」ばかりをやっていた。客との掛け合いを楽しむ。いつのまにか時は過ぎ、目の前の商品の山は、潮が引くようにはけていった。楽だな、と感じながら、ボランティアとはそんなものだと目をつぶっていた。

 足で稼ぐのが今年の仕事だった。「売り子」が足りていたこともあり、私を含めた数人は「宣伝屋」に専念できた。術を歩く。声を張り上げながら、チラシを配りながら。ほとんど立ちっぱなしだったが、なぜか疲れを感じない。

 「宣伝屋」は初めてではなかった。毎年、バザー会場の客の姿がまばらになると、私たち若手がチラシを配って歩いた。「ただいま中郵便局でバザーを開催しております」と大声を上げる。正直、恥ずかしかった。できれば「宣伝屋」はやりたくない、と毎年息をひそめていた。

 バザー会場に着くなり「売り子さんは足りているから」と宣伝部隊を任されたところから、今年の私のバザーは始まった。何年やっても決して慣れるものでない。割り切るしかなかった。

 だが。本腰を入れてみると「宣伝屋」は意外と面白い。街の声が直に聞こえてくる。十年目を迎えるNVCバザーが市民にどれだけ浸透しているのかがストレートに伝わってきた。次第に照れは消え、行き交う人々の反応を楽しむようになった。

 「テレビで見たよ」という声が多い。「これから行く」と笑顔で言ってくれる。中年の女性が中心。一方でチラシを差し出しても、何事もなかったかのように通り過ぎる人もまた多い。こちらは若者ばかり。バザーが老若男女にウけるにはどうすればいいのか、との思いにふけったりした。
 
 充実の二日間だった。「チラシを持ってバザーに来る客が多かった」という仲間の声にも励まされた。ただ、十年たったNVCバザーの市民への浸透度にもの足りなさが残った。

 ラオス、ベトナムと活動の幅を広げているNVC。NGOとして、国際社会では小さくとも確かな役割を果たしている。だが、市民一人ひとりの理解、協力があってこその団体だけに、足もと新潟にもしっかりした目を向けたい。「愛のかけ橋バザー」と書かれた看板を不審そうに眺める多くの一般市民を眺めながらそんな意を強くした。


一大勢集まると何倍にも大きなカになる−
 長谷川真患子(県立女子短期大学)


 「一人では小さなカでも大勢集まると何倍にも大きなカになる」。これは私がバザーに参加してまず感じたことでした。今回が初めての参加だった私にとってはその規模の大きさも、品物の数の多さもすべてに驚きの連続でした。送られてきた段ボールの中は、隅々までぎっしりと品物が詰まっていて、開けるたびにその方の温かい気持ちまで受け取れるような気がしました。

 私がこの夏のスタディーツアーに参加させてもらったことがきっかけでした。実際にベトナムやカンボジアを訪れてみて自分がいかに別世界のこととして捉えていたかを知りました。滞在中に訪れたNVC支援の学校の子どもたちは、私たちを大歓迎してくれました。毎日の食べ物があり、自分たちの眠る場所があるということが、どれだけ彼等に安心感を与えているかを初めて感じました。そして彼らの一生懸命な姿には私自身が励まされるような気がしました。私は国が違うとかそういうことは関係なく純粋に一人の人間として生きようとする彼等を少しでも応援したいと心から思いました。
 
 そう思うと、バザーにも知らず知らずのうちに力が入りました。ここでの売り上げが彼らを応援する大きな力になると思うと、品物が売れるたびにとてもうれしくなり、また「頑張ってね。」そう声をかけられると、何とも言えない充実感が込み上げてきました。私一人では小さな力かもしれません。しかし大勢の人が集まって協力し合えばとても大きなものになっていきます。バザーの売り上げにはそれがよく表れているように思いました。

 バザーに参加したことによって、普段は知り合うことのできない多くの方と知り合うことができました。自分の視野を少し違うところに向けてみると、こんなにも世界が広がっていくのかということを今感じています。そして今後もいろんなことに目を向けながらこうした活動にはどんどん参加し、自分の世界を広げていきたいと考えています。


一「本牧の笑顔」−
 斉藤 絵里子(新潟国際情報大学)


 私はボランティア活動に興味はあったが、実際にボランティアをするということはなかった。そのために一体どういう仕事をするのか、自分はきちんと仕事がこなせるかなど、とても楽しみにしていた。

 当日、売り子として仕事をすることになった。私は今までにいくつかバイトの経験があり、その時のことがいろいろな場面で役立った。飼えばお札の数え方、渡し方、お客様への対応などである。しかし混雑して忙しくなるとお客様への配慮も欠けがちになり、後になって申し訳なかったと後悔することもあった。

 活動を終えて自分で気づいたことは、失敗したり忙しくもあったが、笑顔だけは忘れなかったということ、またお客様や同じボランティア活動に参加している人とコミュニケーションが取れたということだ。自分のお客様への笑顔は「愛想笑い」ではなく、応対しているうちに自然に出ていたものだった。そんな自分にも少々驚いたが、考えて見ればそれは当たり前のことなのかもしれない。自分で満足のいくほどがんばっていると充実感が伴うということや、コミュニケーションをはかることで心が和らぐということから、気持ちが顔に出て、そして本物の笑顔へとなるのだと思う。

 今回のボランティア活動はとてもよい機会であった。自分でも楽しめ、満足のいくものとなった。そしてたくさんのことを学ぶことができたと思う。相手の立場に立ち物事を考え、対応するということも今回の活動で学ぶことができた。言い足りないくらいすばらしい想い出となった。また機会があったら積極的に参加していきたいと思う。


 第21回地球を知る講座が開かれました!!

 1998年11月3日万代市民会館において、一時帰国中のJVCカンボジア駐在代表の山口誠史さんをお招きして、「カンボジアの現状と課題-現地の開発協力に参画して」と題して講演が行われました。また、当日参加できなかった会員の皆さんに山口さんより、次のような一文を寄せていただきました。


「カンボジアの現状とJVCの取り組み」
JVCカンボジア代表 山口 誠史


 近年のカンボジアの歴史は、ポルポト政権による大虐殺に象徴されるように、内戦と紛争によって国土も人心も大きな被害を受けた苦難の連続でした。1990年代に入り、パリ和平条約、UNTAC統治下の選挙を経て、カンボジアはようやく復興への道を歩き始めたかに見えました。しかし、昨年7月の武力衝突と今年の総選挙後の混乱は、再びカンボジア社会を不安定にし経済を停滞させています。人々は平和な社会を渇望していますが、政治の混乱は、そういった人々の将来に対する希望を打ち砕き、自分の生活を改善しようとする努力を空しいものにしています。

 このようなカンボジアにおいて、JVCは大きく分けて、職業訓練と農村開発のプロジェクトを実施しています。少しプロジェクトの内容をご紹介します。

 まず職業訓練プロジェクトですが、自動車の修理技術を若者に教えて、国作りに必要な技術者を養成するのがこのプロジェクトの目的です。運輸省との協力によって設立した技術学校は、現在プノンペンとシアヌークビルという2つの主要都市にあります。プノンペン校では、すでにほとんどの日常的な運営はカンボジア人によってなされており、また付属修理工場で得た収益によって先生の給与をはじめとした技術学校自身の経費を賄うという自立運営がほぼ可能になっています。このため、JVCからの援助はプノンペン校については今年度までで、来年以降は95年に開設したシアヌークビル校に集中する予定です。

 もう一方の柱である農村開発ですが、カンボジアでは国民の8割が農村で生活しています。近年になって、周辺の国々から商品が大量に流入し、その結果プノンペンのマーケットの賑わいや通りを埋める自動車やバイクを見るとモノがあふれて豊かになったように感じられます。しかし、持っものと持たざるものの貧富の差は拡大し、繁栄を謳歌するような都市の生活に比べて、多くの農村では食糧が不足する人々がたくさんいます。そのため、JVCは持続的農業と農村開発プロジェクト(Sustainable Agriculture and Rural Development;略称SARDプロジェクト)を実施しています。

 プノンペン郊外の約50ヵ村の農村を対象に、米銀行や井戸掘りの共同管理をはじめとした人々の生活向上と地域相互扶助システムの強化、ならびに堆杷や緑杷による土作りや、多種類の作物を組み合わせた家庭菜園作りなどを通した、経済的にも生態的にも持続的な農業の普及を行っています。

 今年度から、従来の活動の延長線上に村作り委員会(Village Development Committee;VDC)を作り、強化することを重点目的としています。これは今までバラバラに行われていた地域開発活動を村作り委員会に統合して、村人自身が話し合いによって問題にプライオリティーをつけ解決の方法を模索していくことです。これによって、将来JVCが援助を終了した後も活動が継続して行くための枠組みができます。いかに依存を生まないで人々が自分で必要性を認識して活動を継続して行くかはとても難しい問題です。

 JVCでも必ずしもうまくできているわけではありません。ただし、私達は自分たちが外部者であり、やがては去っていく者であることをしっかりと認識し、村人達が持っている知恵ややる気を引き出しつつ、彼等だけでは現状でどうしようもない部分に関して最低限の支援をしたり、アドバイスをしたりすることによって開発の主体は村人であるという基本を貫いていこうと考えています。

 以上JVCのカンボジアでの取り組みをご報告しましたが、ではNVCとカンボジア、あるいは新潟とカンボジアとはどのようなつながりが可能でしょうか。前述した通り、カンボジアは米作りを中心にした農業国です。カンボジアではもともとあまり手をかけなくても自然の恵みによって人々は生活できていました。しかし、人口も増えその一方で地雷や戦闘によって耕作地が限られている現在のカンボジアにおいて、多くの人々が食糧に事欠いているのが現実です。

 しかし、滞在的な自然の豊かさは工夫と努力次第で人々により多くの収獲を与えることができます。現在JVCの活動地では、ヘクタール当たり1トンから1.5トンしか米が取れません。これは、日本は言うに及ばず、周辺諸国と比べても極端に少ない収量です。この収量を、堆把の利用や適正な水の管理等、環境に悪影響を与えない方法で向上させて行こうというのが私達の目標です。新潟は日本でも優秀な米所であり、NVCにも農業に従事されている方が多いと開いています。もちろんカンボジアと日本とは自然環境も人々の考え方や生活のしかたもかなり違います。それでも日本の農民の経験はカンボジアの農村でも生かされるのではないでしょうか。

 新潟とカンボジアの農村が米作りによって結ばれればすばらしいと思います。現地を実際に見ていただくためのスタディツアーや、農業技術者の短期・長期の流通、あるいは新潟の農民がカンボジアを訪問したり、逆にカンボジアの農民が新潟を訪問したりといった農民交流もおもしろいのではないでしょうか?可能性はいろいろとあります。JVCは新潟とカンボジアとの交流・協力の橋渡しをすることができます。是非、カンボジアとの協力に一歩踏み出していただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。


ベトナム未来プロジェクト11

キークワン寺(盲学校)支援について


 NVCはこれまでの活動に加えて、1998年9月からまた新たなる支援活動を開始しました。これまでの支援が学校建設など「物」であったのに対し、これは「人」への支援を発想したものです。ベトナムの地でベトナムの未来を構想していい実践をしているベトナム人を支援して行こうという考えです。VFP11で支援する方はキークワン寺く(KQ寺)住職のThich Thien ChienさんとMai Van Phucさんで、現地スタッフとして活潅しているリンさんと時々ベトナムヘ飛んでいる運営委員の福田忠弘さんが見い出して来られた方です。

 キークワン寺の盲目の子どもたちの施設(略称;盲学校)は、ホーチミン市郊外Go Vap地区にあり、1995年から活動を開始しています。路上で生活している子どもたちの中でも、家族のない、家のない盲目の子どもたちを集めて(中にはごみ箱から拾ってきて)安全な住居と食事を確保し、世話をすることで子どもたちが安定した生活ができるようにし、さらに教育の機会を与えています。集まってきている子どもたちは4才から30才まで130名いますが、そのうち70名が盲目の子どもたちです。さらに盲目の子どもたちの中には知的障害や情緒障害、肢体不由由など他の障害を合わせ持っている子どももおり、その世話は大変です。

 子どもたちにかかる費用はすべて寄付やお布施でまかなわれ、定期的な支援金は受けたことがなく財政は厳しい状態にあります。NVCはこれまで調査を進め、8月にスタディツアーで訪問し、年間盲目の子どもたちにかかる費用の1/2を支援する契約を結びました。

 このプロジェクトにはいくつかの特徴があります。
1)長期的なプロジェクトである。
  数年でなく、10年、20年を単位として考えている。箱物ではなく、人が支援の対象なのでこれまでにない責任が生じた。

2)社会を変えることにコミットしているプロジェクトである。私たちは以下のよな構想を持っている。
 @構想を持って実践している人を支えていく。
 Aその地でよきリーダーが育つ。
 B社会が変わって行く。
 C照り返されて私たちの社会も変わって行く。

3)決定プロセスにも参画して行く。
 資金援助で終わることなく、また助け助けられる関係でなく対等でプロジェクトに参画し、共に悩み、共に協力し合う。
 NVC,盲学校両者はこのような構想に合意し、とりあえず1年間の契約を結んでプロジェクトはスタートしています。

 今年の8月には、第21回スタディーツアーを始めとして、その前後にもいくつかのグループがカンボジア、ベトナムを訪問しました。参加者は、年代も小学生から60代までいろいろで、それぞれが見て、感じて、考えて来られた率直な感想が寄せられていますので掲載いたします。

スインジャオ(こんにちは)ベトナム
          小学2年 小泉恭平


 「はじめての海外旅行に行くぞ−。」ママがかえってきて、ドアをあけながら、大声でさけんだ。春なが言った。「どこいくの。」「ベトナムとカンボジアだよ。」ぼくは、やったーと思った。でも、地らいとかふんじゃったらどうしよう、ごはんはだいじょうぶかな。いろいろしんぱいもあった。

 いよいよしゅっぱつの8月3日、ほくたちかぞく4人、にいがた空こうからかん空、そしてベトナムのホーチミンシティへとむかった。ひこうきの中、ぼくはほとんどねむっでいた。そのせいか、ベトナムがちかくかんじた。タンソンニャット国さい空こうは、たばこのにおいがした。ベトナムの町には、50CCのバイクがいっぱいはしっていてぴっくりした。めんきょなしでも50CCのバイクにのれる。3人までのれて、4人のっている人もいっぱいいた。どうろのまん中で、サッカーをはだしでやっていたので、ぴっくりした。しんごうはあるんだけど、うごかないからいみがないみたい。どうろをわたるのがこわかった。みちでごはんを食べたりしている人もいっぱいいた。みちでねている人もいっぱいいた。

 ベトナムにきたもくてきは、そのみちでねていた子どもたちの新しいいえができたからだ。それは、オープンハウスという。ぼくたちがオープンハウスに入ると、みんながうたをうたいながらかんげいしてくれた。21人の女の子がそこで生かつしていた。みんながぼくに、「ホワチョワネーム。」ベトナム語ではなく、えい語で聞いてきた。だからぼくは「マイネイミーズキョウヘイ。」と言ったら、「オウ、チョウヘイ。」と言われた。どうやら「キ」のはつ音がむずかしいらしい。つぎは、みんなとあそんだ。ぼくはおりがみとあやとりの先生になった。みんなじょうずだし、とってもはやくおぼえてくれた。すくなくて2こ、多くて5こおぼえてくれてとってもうれしかった。つぎにジャンケンをやった。むこうとこっちのグー、チョキ、パーはおんなじだった。だからジャンケンをつかって、みんなでおにごっこをやった。そのつぎに5にんでバレーボールをやった。とってもみんながうまいから、ほくもがんばらなきゃと思っていっしょうけんめいたまをうった。つぎはサッカーをやった。ベトナムの子がけってきたたまをぼくがけると、ベンチにすわっていた女の人に当たった。みんなで大ばくしょうして、ほくはしんぞうがとまりそうになった。さいごに記ねんしゃしんをとって「シイーユー。」と言ってわかれた。「やったー。」ベトナムのともだちができた。

 ベトナムでいろいろな人を見てきた。ゴミをひろって生かつしている人や、地らいで足や手がなかったり、赤ちゃんにおっぱいをあげながらハガキをうっていたり、どうろでねていたりする人たちをいっぱい見た。ぼくは、日本はしあわせな国なんだなと思った。


カム オン(ありがとう) ベトナム
         小学5年 小泉 春奈


 ベトナムでは、ストリートチルドレンのためのオープンハウス、社会食堂、小学校、盲学校、クチトンネルなどに行った。私はそのうち、印象に残ったものを3つ紹介したい。

 第一に、お母さんの番組(新潟テレビ21「いきいきワイド」)で、しちょう者の方々がぼ金してくださったお金で作ったオープンハウスを紹介したい。門を入ると、女の子達が元気に歌を歌って迎えてくれた。前、道でねていたとは思えないほど明るかった。開所式を終わり、二階の教室としん室を見に行った。お父さんが教室を見ていると、「春奈、春奈の教室のテレビ、こんなに小さいか。」と聞いた。私がたなの中のテレビを見ると14インチのテレビがあった。私はお父さんに向かって首をふった。こんなに小さな14インチのテレビで、30人位の女の子が見るのはとってもたいへんだろう。女の子たちのベッドは、鉄の二段ベッドにござをしいたものだった。固くないのかなあと思った。外に出て、あやとりをして遊ぼうと思って毛糸の輪をたくさん作った。女の子にくばって、いっしょうけんめいほうきを教えてあげた。ほとんどの子ができるようになってくれたのでうれしかった。その後、サッカーをしたり、バレーボールをしたりした。とつぜん、雨がふり始めた。中に入って、折り紙をした。私は、風船、やっこさんを教えた。他にも、カメラ、えんぴつ、つるなどを教えていた。みんないっしょうけんめい折った。楽しかった。あやとりと同じく、おぼえるのが早かった。カメラは大好評だった。

 二つ目の社会食堂は、「6才から17才の子供達178人が世話になっている。そのうち93人がストリートチルドレン、85人が家はあるがまずしい。そこで勉強をし、食事をし、仕事に行き、ねる場所がない人はねることができる。夕方から3つのクラスにわかれ、ぬいもの、絵画、とくべつクラスで健康のことなどを学んでいる。今までで56人が家にもどれたというせいかがある。」などということをひととおり教えていただいたあと、社会食堂にむかった。さとうきびを切ったりしていた道を行くと社会食堂に着いた。入り口の横ではかざりものを作っていた。器用な子にはできるが、私にはとても無理だ。中では、ベトナム語と算数を勉強していた。ベトナム語はとてもわからないけど、算数のほうは筆算の一けた・二けたのたし算だった。ノートを少し見せてもらうと、とてもていねいな字で書いていた。私と同じ十才の子の字は、私の字とくらべものにならないほどきれいだった。えんぴつをあげるととても喜んでくれたのでうれしかった。上にねる場所があるというので行ってみると、およそ6じょうの部屋に40人ねるそうだ。すごくあついんだろうなと思った。

 最後にクチトンネルを紹介したい。クチトンネルは、ベトナム戦争の時ベトナムの人々がかくれていた場所だ。たくさんの所にばくだんを落とされた穴があった。直径約7.5m、深さ約5mの大きな穴だった。さっそく入り口のある場所に着いた。けれどどこにも入り口らしきものは見当たらない。「みなさん、入り口を探して見てください。」私はへこんでいる場所だと思ったけど、お父さんが、「ここじゃないですか。」「そうだ。ここだ、ここだ。」たくさんの人が集まってきて、「ここだよ。ここ。」ガイ下さんがたくさんの葉っぱをどかすと出てきた。ふたを開くとガイドさんが言った。「昔の入り口は、この半分でした。」今の入り口が棟約50cm、たて約20.cmの入り口だった。ガイドさんがぼうをまん中においてくれた。たて約25cm、棟約20cmになった。みんなが「小さ−い。」「なんでこんな小さな穴に入れるの。」また通路もせまかった。高さが約125cm、弟の恭平がやっと立って歩けるくらいだった。私はちょっとこしをまげるくらいでもだいじょうぶだった。大人はハイハイをしていた。先頭のガイドさんがかい中電灯を持っていたけど、一番前にいないと大人のおしりで見えなくなってしまって真っ暗だった。萌と後ろに人がいなかったら、私はどんなに心細いことか。このトンネルは250kmも続いている。新潟市から高崎までのきょりだ。空気穴がつぶされないように、アメリカ兵がよく使う石けんをちりぼめたり、いろいろ工夫をしていた。落とし穴もあって、針がたくさんついていて、私たちは(つらくて)じっくり見ることができなかった。

 私は今回ベトナムに来て、お父さん、お母さん、弟、家族が大好きになった。家族にあまえられるのは幸せなことだなあと思った。お父さん、お母さんに言われていた以上に、戦争はしてはいけないものだなあと思った。1才くらいの子がお母さんにだかれて、絵はがきを売っていた。でも、1才の子が、ホテルでたんじょうパーティをしていた。このちがいは、すごいちがいだと思った。日本は、こんなちがいがなくて幸せな国だなあと思う旅だった。
 カム オン ベトナム
 ありがとう ベトナム


ベトナムと盲学校の人たち
        高校1年  阿倍涼子


 私は、初めて海外に旅行に行きました。ベトナムという国は、まわりの人から聞いていた通り、日本と比べてとても貧しい国でした。「スラム街」と言っていいような所がいたるところに、本当にたくさんありましたし、お金がなく生活に苦労していると見られる人々がたくさんいたように思います。それに、体に障害を抱えた人々がたくさんいました。

 みんなで行ったキークワン寺では目の不自由な子供がたくさん住んでいました。本当に小っちゃい子供もいたし、私と同年代か私より少し年輩の方もいました。目が不由由でも楽器もひくし、それ以外にもいろんなことに取り組んでいましたし、何よりもみんなすごく楽しそうでした。盲学役に着いて建物の中に入ろうとした時、3人の男の子がリコーダーで「サクラ」を演奏しているのを聞いた時にはすごくびっくりしました。中にはいるとすぐ大きな広いスペースの場所があって!、そこで盲学校の子供達全員が聞かせてくれた歌にはカナリ感動しました。一人の女の子はすごく歌が上手で、とてもきれいな声でした。盲学校にいる先生みたいな人はすごく親切な人でした。盲学校にいる人すべてがみんな優しかったです。やっぱりこの盲学校でもお金が足りなく生活に因っているということを聞きました。私ができることはしたいし、盲学校のみんなが少しでも今より助かる様に協力したいと思っています。 ベトナムでは他にもいろんな所へ行きましたが、やっぱり日本とは全然ちがう所がたくさんあって、カルチャーショックというのを感じました。

 ベトナムへ来て感じたことは本当にたくさんありましたが、かえって日本の事が、日本がどれだけ幸せな国か分かったような気がします。ベトナムはとにかく、道に人がいっぱいいました。それも物を売ってきたり、「お金をくれ」と言ってくる人がほとんどでした。日本へ帰ってきて「なんて静かな国なんだ」とベトナムとの違いに少し驚きました。

 そしてベトナムの子供達は、とても勉強を頑張っていたのですごく尊敬しました。「私は将来〜になりたい。」ってみんなちゃんと決まっていたし、日本より勉強する環境があまり良くないのに、みんな一生懸命勉強していました。日本の学生の方が勉強というものに、あまり真剣になっていない。あっちの子供はすごいです。エライと思いました。

 「ベトナム」という国はテレビでもいろいろ見たことがありましたけど、行ってみて、行かなきゃ知ることの出来ないことをたくさん学げました。怖くて早く日本に帰りたかった時もあったけど、ベトナムの人はみんな優しくて、自分も考え方がほんの少しだけど大人になった気がしています。最後になりますが、私の中で思っていることは、私と同年代の人々が、ベトナムでこれから幸せに生きていける様にボランティア活動にこれからも積極的に参加していきたいということです。


ベトナムの子供たちから学ぶこと
             川村 卓史

 私は今、アジアを取り巻く環境の中で一番大変なのは子供たちではないだろうかと思えてきています。なぜなら子供たちは生まれてくる国をそして家柄などを選べないのだからです。そしてまた同じ地域である日本という国の子供たちがこの意味を理解するのはいくつの歳になってからなんだろうかなんて帰国してから考えたりしています。今回の未来プロジェクトで訪れたベトナムで私は、悲しい歴史を背負っていながらそこで生きていこうとしている子供たち、そして様々な施設で頑張る子供たちなど色々な場面で出会うことができました。街の中に存在した「社会食堂」と呼ばれる施設、そこで生活しながら教育を受ける子供たち、そしてそこで生きる彼らにとって普通の生活が送れるということは凄いことなのかも知れません。私の職場のみんながベトナムの子供たちへと鉛筆を集めてくれていましたのでここで渡すことも出来ました。とても小さな子供たちの手へと一本一本運んでいくうちに、喜ぶ子供たちの顔を見ながらみんなの気持ちが伝わっていくような気がして何か満足感さえ勝手に覚えていました。そして子供たちは本当に素敵で、素晴らしい未来が待っていると思いますし、それを描く彼らの想像力は日本の子供たちにも負けない位豊かかもしれません。

 また次に訪れた学校でも同様の姿を見ることが出来ました。「キークワン寺盲学校」つまり寺院が盲目の子供たちを支援している施設なのですがそこで最初にお会いした若いお坊さんは、まさに子供たちにとっては先生であり親代わりにもなっているようでした。中では一生懸命本を指で読んでいる人や友だちと仲良く遊んでいる姿が見受けられ本当lこ、子供たちには国境はないんだと感じました。帰り際にみんなで歌を歌ってくれたことは本当嬉しかったですし、彼らがこれから大人になって本当の現実と向き合うのかと思うと、それらを取り巻く環境の変化を強く期待してしまいます。

 戦後20年でドイモイ政策のもと急成長したこの国、しかしそんな発展のなかで全く別世界のように厳しい現実と向き合っている人達がいるというのは考えさせられましたし、それと同時に日本に生まれて本当に今、何が幸せなのかと思えてもきました。勉強が受けられることに喜びを感じていた子供たちや子供らしく生きられることに楽しさを感じはじめた子供たちを見て、自分が果たしてその時にそう感じていたのかと思い始めてきています。本当は当たり前に生きていけること、健康でいられることにもっと嬉しさを感じなければいけないのではないでしょうか。私は彼らから何気なく忘れている多くの大切なことを学ばなければいけないと思いました。

 最後に今回の活動に参加させてもらって感じたことは色々な援助などを通じて国境を超えたつながりが市民レベルで拡大していくことに大きな意味があるということでした。また様々な人からの募金や寄付そして気持ちが集まってこの団体が運営されていくことに大きな期待が持てたような気がしていますし、このような活動を次の世代へと受け継いでいくことも、子供たちにとっての本当の未来プロジェクトになっていくと思います。


ベトナムに行って
              谷田 英


 NVCのことなどまったく無知であった私が、ひょんなことからベトナムに行くことになった。恥かしながらベトナム戦争で枯葉剤によって、ベトちゃんやドクちゃんの様な子供達が生まれたんだという様なことくらいしかベトナムを理解していなかった。 スタディーツアーの中で、いろいろな所を訪ねた。その一つにキークワンパゴダを訪ねた。パゴダというのはベトナム語で「お寺」という意味だそうだ。ここは民間の寺院のお坊さんが運営していて、目の不自由な人達(・・・と言っても小さな子供から大人迄)が70名余り、寝食を共にしている。毎日の身のまわりのお世話や、勉強などを教えてくれている先生方がおり、本当に安い給料で働いている。運営資金や、自立への道のため点字用の紙等を作る工場設立も試みたが、やはりそれに要する資金等の間是で困難をきわめたということである。又、一方で音楽を教えて外に出そうとしたが、なかなか受け入れられず、これも思うようにいかなかったそうである。

 政府の援助なしで、70名余りの老若男女の生活をみていくことの大変さをこの目で直接みて、触れて強く感じた。建物もずい分老朽化しているので建て直したいとか、先生方の給料の問題、食こと問題が今、一番深刻になっているということをお聞きした。

 私達は、一堂に集まった人達を目の前にして、どんな言葉をかけてあげたら良いのか少々とまどい気味の中で、突然歓迎の意味で歌を歌ってくれた。もちろん目が不自由なので私たちの姿はわからないが、終始明るい元気な声で、すき透る素晴らしい声で歌ってくれたことに感激し、私たちもお返しに坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」を歌った。この歌の意味はと問われて「みんなつらいことや悲しいこと、楽しいことがあったら上をむいて元気に行こうね!!」ということだと話してあげた時、私はもちろん私たちは「涙がこぼれない様・・・」と歌の中にあるが、本当に胸につまるものがあり、思わず涙してしまった。

 その夜、ホテルに戻り、私たちはミーティングを二時間もかけてした。勝手に「お坊さんとボランティア」等とえらそうなテーマをつけて、今日訪れたキークワンパゴダのことから日本ではどうなんだろうなどと・・・延々と議論した。

 翌日社会食堂を訪ねた。市場の中にあり、決して良い環境とはいえない。両親がいない、もしくはいても一緒に住めない子供達が寝食を共にしている所である。丁度食車中の時で、食事内容は非常に貧しい。子供達が働いて、生活費をわずかながら得ている。学校へ行くことも出来ず、食堂の二階で自分達で勉強している姿をみた時胸につまるものがあった。私も戦争を経験した一人として、戦後の日本もこんな状況下にあったなとふと涙をよぎった。こんな環境の中においても、子供達は明るく、元気だった。たくさんの子供達に接してきて、どうしてこんなに澄んだ目をしているんだろうとふと考えてしまった。

 今回ベトナムを訪ねて、この目で現状をみて自分はなにが出来るのか、そして自分をとりまく人達にどのように伝え、助けを借りることが出来るのかを考える良い機会となった。私はもう一度ベトナムを訪ねて四日間接した人達に是非会いたいと思う気持ちを一層強くした。


キー・クワン・寺、および社会食堂について
      NVC会員 北上 重之


 1998年、春、夏、私は二度にわたり、ベトナムを訪れることがでさました。私はそこで多くのことを見、開き、そして考えることができました。では、その中でもこれからの活動に関りの深い、キー・クワン・寺盲学校と社会食堂(クアン・コム・サ・ホイ)について書かせて頂きたいと思います。

 まず初めに、盲学校を運営するお寺、キー・クワン・寺についてお話します。ここでは現在、130名を越える子供たちが生活をしています。ここで生活をしている子供たちは視力ばかりでなく、耳や言語、それから精神面などに障害を持ち、またそれらが複合している子供までいます。その中で、目の不自由な子供というのは、4才から30才までの70名程となります。ここベトナムでは、未だに日の不自由な方に対する偏見が強く、子供たちの中には住職がごみ捨て場から給ってきたという子供までいるそうです。境内には本堂や修行部屋の他に、子供たちのベッドルームや勉強部屋まで揃ってはいますが、お寺の経営状態は決して豊かと呼べるものではなく、わずかばかりのお布施と地域住民による支援に頼っているのが現状です。そのため子供たちは、町で宝くじを売るなどの仕事をしながらお寺の経営を助けています。

 日の不自由な子供たちはここで、点字や音楽を勉強し、少しでも早く自立でさることを望んでおります。私が初めて訪れたときには本当に租末な楽器しかありませんでしたが、夏に訪れたときには音楽部屋としてリフォームされたきれいな部屋と数点の楽器が寄贈されており、とりあえず音楽の授業ができるだけの環境は整ったといえるでしょう。しかし点字の勉強に関していうなら、点字用の紙は高価なため、かなり不足しています。そんな子供たちは、私たちの訪問を心から歓迎してくださり、歌や音楽をもって迎えてくれました。春に訪れたときにはお返しの歌を歌ったのですが、私たちの歌にあわせてギターの伴奏をつけるという耳の良さに、大変驚かされました。

 彼らの中には、手術さえ受ければ3年以内に視力が回復する人もいると聞きました。費用は、一人およそ120米ドル。この手術には援助が受けられるそうですが、近くに手術がでさるところはなく、その移動費や滞在費にも問題があります。

 私は時折“もし自分が障害を持っていたら”ということを想像します。もし足が不自由だったら。手が不自由だったら。目が、耳が、口が。その中でも、目が不自由だったらと考えると、目が見えるということがどんなに大切なことかと考えさせられます。そんな私ですから、子供たちの生活ぶりというものは想像がつきませんでした。しかし、初めてここを訪れたとき私を迎えてくれたのは、鈴の入ったボールを追いかける子供たちの歓声でした。「偏見だ」「差別だ」などと怒られるかもしれませんが、私はパラリンピックなどに出場している方たちを除いて、目の不自由な人が走るなどという想像をしたことがありませんでした。ですからその様な状況を見て、そんな彼らがなぜ社会で生きて行けないのかと、とても疑問に感じました。そして、それは社会のあり方ではないかと考えました。開発途上国では、すべての人々をサポートすることは難しいでしょうが、いずれは必要になるはずです。その中心となる人材を、NVCがこれから育てていくのです。

 NVCからは今回、25万ドン(釣2500円)×12ケ月×35名という支援を行うことに決定しましたが、この35名(対象者の半分)というのには理由があります。NVC自体、豊富な資源を持ち合わせていないため、もし対象者すべての支援を行った場合、その支援はほとんどが食費として消えてしまうでしょう。しかし、対象者を絞りその生活全面を支援することにより、一人でも多く優秀な人材を育てたいという願いがこもっています。その様にして育った方たちが、いずれは国を背負って立ち、似たような境遇にある方たちのサポートができるようにと、願ってやみません。

 次に、社食食堂(クアン・コム・サ・ホイ)について。この社会食堂とは、とても活気に満ちた通りに面している小さなレストランです。ここでは現在、40名程の子供たちが生活をし、食ことどき以外の時間、食堂は勉強部屋や内職の場として利用されています。二階には、子供たちの生活空間があります。その広さは、はっきりとはおぼえていませんが、余裕があるようにはとても見えませんでした。

 かなりの暑さにもかかわらず、子供たちはそこで、交替しながら寄り添うように昼寝をしていました。社会食堂には現在、二人のコックと四人の先生がいます。食こと代は一食3000ドン(約30円)で提供していますが、子供たちにはチケット制をとり一食1000ドン(約10円)、お金のない子供には無料で提供しています。したがって、近くに住む子供たちも利用するため、合計では130名を越える子供たちを養っている状態だそうです。

 子供たちは、魚を取るグループ、靴磨きや物を売るグループ、市場に落ちている野菜を拾うグループ、そしてごみを拾うグループに分かれ、それぞれに大人のリーダーがつき、お金を嫁いでいます。稼ぎは、多い子供で一日1米ドル程度と聞きましたが、その収入も安定したものではありません。また縄張りがあるため、時々衝突が起こるそうです。子供たちのお金は大人たちが管理し、場合によっては貯蓄したお金を親への仕送りにあてている子もいるそうです。

 旅行に出かけるとき、必ず受ける注意があります。それは、物ごいをしている人に、お金や物をあげないでくださいという注意です。それが本当に悪いことなのかどうか私にはわかりません、初めてここを訪れたときには飴玉を、二度目のときにはある団体より送られた鉛筆を、子供たちに配りました。仏頂面では申し訳ないと思いそれなりに笑顔を絶やさずにいましたが、子供たちには自分だけ多く貰おうという考えはないようで、たとえ自分の番を飛ばされても何も言わず、また周りを観察しながら「自分はこんなに貰ったから、この子にあげて」と気をつかっています。私は、そんな子供たちの優しさに心を打たれました。しかし、この優しさがいつまでもつものでしょうか。もう少し大きくなるとこの子供たちは皆、自分の利益を追求するようになり、観光客には法外な料金を請求するようになるのではないでしょうか。それが悪いこととは一概にはいえませんが、決して正しいといえることではないでしょう。

 何が正しく、何が間違っているのか。それを学ぶためには教育が必要です。教育とは、安定した社会の基底を成すものです。にもかかわらず、教育がすべての人に平等に与えられている国は極一部にしかすぎず、大方は教育と経済力とが相関関係にあります。そしてこの関係の強さが、社会の歪みとなって現れます。言いかえるならばこれは、人の心の歪みではないでしょうか。そしてその歪みは社会の弱者へと向かいます。もしこの子供たちを被害者と表現するのであれば、加害者とは一体誰になるのでしょう。その責任とはどこにあるのでしょう。今、この時代だからこそ、この問題には真剣に取り組まなければならないと、私は考えます。 この社会食堂は以前、イギリスの団体から支援を受けていたそうですが、その支援が打ち切られ一年になろうとしていました。今回NVCからは、3650米ドルの支援を行いましたが、今後どのように支援していくかは難しい問題といえるでしょう。

 これまでのNVCの活動とは、ハコ物中心に行ってきました。しかし、上述した二件に押しては恒常的な支援を目的としています。そしてそこには「金を出すけど口も出す」という考えがあるそうです。それぞれの状況に合わせ、優秀な人材を一人でも多く育て、そしていずれは彼ら自身で問題を解決できる社会を実現して欲しいという願いがあります。もしかしたら近い将来、私たちが彼らに助けられるような時代が来るのではないでしょうか。


支援地を視る−キークワン寺
      NVC会員  前田 有樹


 簿汚れた白いシャツを着た少年はうつろな表情で天井を仰ぎ、両手で目を覆った。顔から手を離す。またふさぐ。少年は何度も同じことを繰り返していた。

 昼過ぎ、ホーチミン市北部のゴーバップ地区をたたきつけるような雨が集った。灯りのない盲学校のゲストルームは、日没のような闇に包まれた。その中で少年は一人、ひんやりした床にあぐらをかき、光を求めていた。再び両手を顔から離し、首を左右に傾ける。あどけない表情は、暗さを通り越して、あやうさを覆わせている。

 パッ。軽い、音にもならぬ音を私のカメラは発した。フラッシュの閃光が暗闇をつんざいた。少年はブルツと肩を震わせ、呆然とした顔を私に向けた。呆然としたのは、ほんの一瞬だった。少年はすぐに満面の笑みを浮かべ、のどを鳴らして照れてみせた。やはり光を感じることはできるのだ。私は予感が的中したことにむしろ驚いた。盲学校、目の不自由な子供たち。未知の領域に潜み込んだことを知る最初の瞬間だった。

 NVCが支援することになった、この音学校は「キークワン寺」と呼ばれる。純粋な仏教寺院で信者のお布施から成り立っている。寺は1995年3月から目の不自由な孤児らの受け入れを始めた。今では約130人の孤児が、ここで教育を受けたり、共同生活をしたりして暮らしている。

 私はベトナムを訪れる前に一つだけ、自分自身に宿題を課していた。NVCスタディーツアーではできないことをしたい。支援地を訪れ、歓迎され、写真をおさえ、次の支援地へ向かう。そうではなく、一つの支援地で飽きるほど時を過ごしたい。支援を受ける側の素顔に解れたい。私は「視る」作業をする地に、NVCの新プロジェクト、キークワン寺を選んだ。

 8月18日。よく晴れた朝だった。タクシーで約30分、市街地から郊外へとバイクの波をぬって走った。舗装された大通りでタクシーを降り、水たまりが点々とした小道を五分ほど歩いた。ポロシャツにザックを背負った日本人は好奇の目にさらされる。この5分も例外ではなかった。慣れてはいるものの、ベトナム人の精かんな目つきは郊外にいくほど鋭くなり、卑小な背中がジワッと痛い。

 ベトナムでは中堅クラスと思われる洋風の家が並ぶ住宅街の端に、その寺はあった。東南アジアの寺はどの国翡も豪華だ。日本と比べているのではない。その国で一般的なヤシの葉葺きの傾きかけた家に比べると、ということだ。キークワン寺もそう。漢字が大書された看板のかかる門構え、カラフルな本殿、よく整備された庭園。タイで観光地となっている大寺院をコンパクトにしたようなおもむきを持つ。

 門をくぐり、本殿と誰もいない広場の間を奥へと進むと、孤児たちの居住区にぶつかる。奥に向かって長細く伸びた建物が手前に1棟、正方形の2階建ての建物が奥に1棟ある。この2棟で孤児たちは生きている。

 最初に出会ったのは白く濁った瞳を持つ男の子たち。ベンチで肩を寄せあい、たて笛を奏でている。木の下には無邪気に走り回る女の子が一人。その目はさんさんと揮いている。日の不由由な孤児とそうでない孤児が同居していることを、まず知った。「盲学校」という先入観は崩れた。ここは目の不由由な子供たちも学ぶことのできる「孤児学校」だ。しかも寮付きの。

 寺を管理する僧たちとの挨拶もそこそこに、施設を巡ってみた。手前の棟はゲストルーム、教材管理室、寝室、食堂、厨房に仕切られている。「仕切られている」という表現がもっとも適切だろう。天井は一つなのだから。その天井には用を成しているとは思えないほど静かに、ファンが回っている。屋内はうす暗く、かなり蒸す。廊下の奥の方からアンモニウム臭のまじったすえたにおいが流れてくる。 まだ午前10時だというのに、食堂ではおばさんたちが、昼食の準備のため忙しそうに動いている。もう食べ終えた子供もいるという。臭いの元も、どうやらここのようだ。食卓にはお世辞にもうまそうだとは言えない料理が並べられていた。7人がけのテーブルに、芋などが浮いた味の薄そうなスープが1鍋、魚の干物が2皿、軽く火を通した青菜も赤茶けた汁に団子大のもの新入った煮物も2皿ずつ置かれている。すべて山盛りのうえ、ご飯も加わる。足りないことはなさそうだ。

 食堂脇に裏ロがあり、そこから奥の棟へと続く。2棟目には寝室3部屋と教室、その奥に風呂場もある。暗い寝室には二段ベッドが並び、何人かが腕を枕にウトウトとしている。約2畳分の寝床に二人で寝ている姿は少し窮屈そうにみえる。ほかの何人かは耳にラジオを当てたり、ギターを弾いたりして、それぞれの昼休みを過ごしていた。3部屋とも比較的年長の男性が寝起きしている場所のようだ。 

 この棟の教室でサングラスをかけた男性が点字を打っていた。チャン先生、40歳。点字と語学の教師だ。ジーンズ1枚でタイプライターの前に座り、キーボードをものすごい勢いでたたいている。教室にタタンタンタンと乾いたパンチ音がこだまする。その表情は真剣そのものだ。

 「私も事故で目が見えなくなったのです」。仕事の手を休めて、チャン先生は光を失った理由をサラリと話してくれた。サングラスの奥にちらつく生々しい傷跡が、彼の言葉を裏付ける。若い頃はX線の技師で、折れた骨などを見つける仕事をしていたという。解放後に職を失った。今は4キロも離れた自宅から同僚の先生とこの寺に通勤している。

  「公立の盲学校は16歳以上を受け入れません。この盲学校がなければ16歳以上の日の不自由な人が勉強することができないのです」。チャン先生は、キークワン寺がいかに目の不自由な人への教育に役立っているかを、なまりの強い英語で力説した。「日本の盲学校がどんな設備があるのか」。「日本では目の不自由な人はどんな生活を送っているのか」。矢継ぎばやに質問を浴びせる姿から、チャン先生の熱さが伝わってくる。私が「詳しいことは分からない」と歯切れの悪い答えを返すと「それならば日本に帰ってから手紙で教えてくれ」と名刺を差し出した。「この寺がなかったら私も点字を覚えられなかった。ここで教育を受けてから先生になったのですから」。寺の教育環境の改善に全力を尽くそうというチャン先生の心意気が、弾かれた言葉一つひとつに宿っていた。

 チャン先生の授業ものぞかせてもらった。生徒は3人。十代前半の男女をそれぞれの席に座らせ、チャン先生もタイプライターの置かれた机についた。先生も含めて、二人一組になる。一人が点字の打たれた本を指先でなぞりながら読み上げ、もう一人はピンク色の紙に慎重な面もちで点字を打っていく。音楽のような、ゆったりとした朗読が教室に響く。にぎやかだが、全く雑談のない授業だった。

 人と出会い、触れ、話しながら寺を4周はしただろうか。そのうちすることもなくなってくる。意味もなくぶらぶらとするだけ。決して有意義でない時がのんびりと過ぎていった。ベンチでボーッと子供たちの遊びを眺めたり、元気のよい子供たちと一緒にはしゃいだり。それでも時間はいっこうに進まなかった。日が落ちるまでじっくりと滞在させてもらうつもりが、午後3時ころには、あまりの退屈さに耐えられなくなっていた。夕食のメインデイッシュを食堂で確認し「これで寺の一日を視た」と自らを納得させることにした。寺を後にしたときは午後4時すぎ。孤児たちはいまごろ、肉の芋の煮物をロいっぱいに詰め、キャベツのスープを喉に流し込んでいるだろう。帰りのタクシーの中で、寺の夕食を見学するまで退屈さを我慢できなかったことを少し悔いた。

 それにしても。今でもそう思う。それにしても孤児たちは底抜けに甲るかった。両親のいない寂しさも、日の見えないことへの悲痛さも全く表には出さなかった。半日、寺で過ごして、そう感じたのだ。彼らの笑顔に偽りはない。いったい何が彼らに笑顔を与えたのか。

 思い当たる節はある。たて笛を楽しそうに吹いていた仲良し二人組。真剣な表情でギターの音合わせをしていた青年。「ホワッチュアネーム」となめらかな英語で話しかけてきた背の高い男の子。そして、点字の教え方をルービックキューブのような教材でわかりやすく説明してくれたチャン先生。彼らはみな目が見えなかった。それでも学ぶことの楽しさを知っていた。読み、書き、話し、弾き、歌う。そんな当たり前のことを当たり前のように学べるからこそ、つらさを忘れて笑えるのだろう。日々生きることに精一杯で学ぶ機会も与えられていない子供にはつくれない最高の笑顔が、寺院中にあふれていた。

 帰国後、盲学校で撮った写真をめくっていると、光を求めていた少年の写真をみつけた。フラッシュを浴びる寸前の少年は、指先を目の下に当て、下のまつげを頬にギュッと引き寄せている。まるで無理に目をこじ開けようとしているかのように。写真を撮った直後、こちらまでうれしくなるような笑顔を向けられたから気づかなかった。その無垢な笑顔とは無関係に、少年はやはり光が欲しいのだ。苦しいほど。


事務局長の交替について

 昨年4月に事務局長に就任以来、NVC事務局の仕事を一手に引き受けてくださった西村智奈美さんから、来年の地方統一選挙の県会議員選挙に立侯補の決意をしたのでNVC事務局長を辞任したいという申し出がありました。
 10月の運営委員会で検討の結果、西村さんの辞任が承認され、後任として谷口良運営委員に来年の総会まで事務局長代行をつとめていただくことになりました。さらに前事務局長の大竹康子運営委員、それにこれまでも事務局員として尽力くださっている馬場隆史運営委員、北上重之会員のお三方にもこれまで以上に事務局の仕事を手伝っていただくことになりました。これまで西村さんがNVCのために使ってくださった時間と能力と労力がいかに貴重なものであったかを思い深く感謝いたします。
 西村さんの今回の決意は、NVCの事務局長としてではなく、個人のものです。申すまでもなくNVCは、特定の候補者や政党を支持する団体ではありませんが、新しい場でのますますのご活躍を期待しています。

                                                 NVC代表 高橋 節子


 私こと来春4月の新潟県議会議員選挙に立侯補することになり、NVC事務局長を退くことが運営委員会で議決され、10月付で退任いたしました。遅くなりまして恐縮ですが、ここに退任のご挨拶と、これまでご協力いただいたお礼を申し上げます。
 年度途中の交代ということでたいへん心苦しく存じましたが、後任を谷口良さんに事務局長代行という形でお引き受けいただき、さらに大竹康子さん、馬場隆史さんという事務局体制にお願いすることになりました。皆様には新事務局へのご協力を何とぞ宜しくお願い申し上げます。
 袖山由美子前代表、大竹康子前事務局長の後を引き継いでの約1年6カ月でした。会員の皆様からほとんどの仕事を支えていただきましたが、NVCは、会員でいらっしゃらない数多くの方々にも、バザーや講座、スタディツアーへの参加、あるいは事業の共催というさまざまな形で支えていただいております。皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 今後ともNVCをどうぞよろしくお願い申し上げます。

                                                  平成10年10月    西村 智東美


 10月の運営委員会でお話を承り大変驚きましたが、西村さんには新しい仕事を是非とも頑張っていただきたく、また来年4月の総会までの代行ということでお引き受けいたしました。西村さんの足元にも及びませんが、一緒に担ってくださる大竹運営委員始め事務局員の皆さんとカを合わせてその間をつとめさせていただきます。ご協力をよろしくお願いいたします。

                                                   NVC事務局長代行 谷口  良